about芸妓
芸者・芸妓
芸者は、踊りや三味線などの日本の伝統芸能で宴を盛り上げるプロです。 ほどんとの芸者がこれを生業とし、アルバイト感覚ではありません。 一人前になるには当然厳しいお稽古をつみます。
芸者にはいろいろな呼び名があり、 関東では「芸妓」「芸者」など、関西では「芸子」と呼びます。 修行中の芸者は「半玉(はんぎょく)」と呼ばれ、京都では「舞妓」と言われます。 芸者の世界は「花柳界(かりゅうかい)」と呼ばれ、これは柳緑花紅からあでやかな世界を意味しています。
熱海芸妓・芸妓見番
熱海は全国でも屈指の花街。ほとんどの芸者は派遣業社に相当する「置屋(おきや)」に属しています。 現在熱海には約50程の「置屋」があり、約100名程の芸者が活躍しています。
<芸妓組合の沿革>
明治10年、阪東三代吉師は樋口ろく遊芸師として熱海浜町に居住して、 宿屋にご滞在のお客様に稽古の相手をしていました。 長唄は杵屋、踊りは阪東流で岩倉具視さんのお墨付き。 明治43年には三代吉師の功労記念碑を明治の豪商・公爵・侯爵の上流社会の方々が、 大乗寺の山門の所に等身大の碑を建てたとの事。 今では跡形もありませんが、芸妓の祖である三代吉師の菩提寺であるので、 平成4年に芸妓組合が撥扇塚(はっせんづか)を建立しました。 この塚は、使い古した道具(扇子・三味線・糸・撥など)を、毎年4月20日にお焚き上げ供養し(撥扇塚供養祭)、 芸事精進を祈願します。 大正元年に三代吉師の後継者である喜久さん遊芸師の妹である「若椙はな」は「春の家お花」として遊芸師となりました。 この頃は芸妓としては認めず、遊芸師でなくては宿屋に出入りは許されませんでした。 芸妓と呼ばれるようになったのは、昭和7年熱海芸妓組合設立になってからです。 芸妓、元遊芸師は、大正7年頃27~28名で、昭和11年に195名になりました。 昭和25年に熱海大火があり、置屋も大分焼け出されました。 それを機に、熱海の街並みも随分変わり、現在の組合になるまでは転々と事務所を移しました。 昭和29年に現在の組合の建物が完成し、4月1日・2日の二日間落成を祝いました。 当時としては立派な建物で、東海一の芸妓組合と言われました。 平成2年には永年念願だった「熱海をどり」が開演され、その開期は毎年4月28日・29日と決められました。
→熱海をどりについて
熱海市では現在、この「熱海芸妓」を熱海の代表文化であると捉え、積極的に内外にアピールしています。 平成10年6月からは、「芸妓見番ぶらり―湯めまちをどり華の舞―」と称して、 芸妓見番(置屋の組合)を公開。熱海の伝統芸能を身近に目の前で観賞頂けます。
→湯めまちをどり華の舞について
玉代・花代
玉代(ぎょくだい)とは、芸者に対してお客様にお支払い頂く料金のことを言います。 花代(はなだい)とも言います。 直接芸者に支払うのではなく、宿の明細に組み込まれて、ご宿泊代と一緒のご請求となります。 花代は宿によって異なりますのでご注意下さい。(料金については各宿へお問合せ下さいませ)
芸者の世界では、時間を「本(ほん)」で数えます。 「1本(いっぽん)」とは30分のこと。 「一座敷(ひとざしき)」は2時間ですので、 本数にすると「4本(よんほん)」となります。 ご延長は30分単位です。(「6本」といえば3時間のことです)
その他、芸妓用語をご紹介します。
置屋 okiya | 芸者が所属するエージェントのこと。熱海には約100あります。 |
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見番 kenban | 置屋の組合のこと。 |
一本さんipponnsan | 大人の芸者。 |
半玉さんhangyokusan | 芸者のたまご。 |
玉代 gyokudai | 芸者を呼んで遊ぶご料金。花代、線香代とも言う。 |
お座敷 ozashiki | 芸者さんが招かれる宴席。 |
こま koma | 少人数のお客様のお座敷。 |
立ち方 tachikata | 踊り手の芸者。 |
地方 jikata | 三味線や太鼓の演奏、唄をうたう芸者。別料金。 |
1本 ippon | 芸者30分の玉代。 |